上と下、あなたはどっちのひまわりが好き?
上は札幌の観光名所・大通公園のひまわり。小ぶりでかわいらしく、形も整っている。眩しい姿はまるでアイドルのようだ。信号待ちの時に目にとまり「きれいだな」と写真を撮った。
一方、こちらのひまわりは、道端で咲いていたもの。自転車を漕いでいたが、思わず立ち止まってしまった。でかい。大通のひまわりと比べると、花のサイズは100円玉と500円玉くらい、背丈も札幌テレビ棟と東京タワーくらい違った。
ひまわりの標準形はわからない。でも、同じひまわりなのに、これほどの違いがあるのはなぜだろう?大道りはハム太郎用、道端はタイショーくん用だから?僕は、大通公園のひまわりは「見せる」ために育てられたが、道端のひまわりはそうではなかったからだと思う。
人の集まる交差点に置かれた小さい花壇。ビルが陰になり、太陽を浴びる時間も短い。そこにまとめて植えられた小ぶりなひまわり。形が整っていてかわいい。多くの人の映る景色を豊かにしてくれるだろう。だが信号待ちでなければ「きれいだな」と思うだけで素通りしていた。多くの人の目に触れられても、心に刺さるのは難しいのではないかと思った。
一方、道端のひまわりは、フラッシュではなく、太陽を浴びる為に花を咲かせているように見えた。人に見せるなんて気にすることなく、のびのびと育てられた姿に心を動かされ、僕は立ち止まったのだ。
「見せる」ためかそうではないか。これはいろんなことに当てはまるだろう。文章もまた然り。僕はWordPressでブログを開設してから、アクセス数やTwitterのいいねの数が気に掛かっていた。もちろん、沢山の人に読んで貰いたいし、それに超したことはない。でもやっぱり、
「読まれる」ためでなく、「書きたい」ことを書く。その気持ちを忘れずにいたい。
僕が文章を書き、Webに公開したきっかけは(noteから始めた)、内村鑑三の晩年の講演を記録した本「後世への最大遺物」(クリックすると青空文庫に飛びます)を読んだことだった。内村は教員時代、自分がキリスト教徒であったため、教育勅語に敬礼しなかったことがある(不敬事件・1891年)。また、日露戦争が勃発した際は、熱狂する世論に対して非戦論を貫いた。自分の意志を貫いたのが、内村鑑三という男だ。そんな内村が考える、後生に残すべきものはなんだったのか。内村は、第一にお金、第二に事業、第三に思想だという。内村はまず、社会に貢献するためには、お金と事業が必須だと考えた。だが、この二つが不得意な人もいる。そんな人は何も残すことができないのか?たとえお金や事業を残すことができなくても、自分の思いを言葉で残すことはできるのだ。
私は名論卓説を聴きたいのではない。私の欲するところと社会の欲するところは、女よりは女のいうようなことを聴きたい、男よりは男のいうようなことを聴きたい、青年よりは青年の思っているとおりのことを聴きたい、老人よりは老人の思っているとおりのことを聴きたい。それが文学です。それゆえにただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。
内村鑑三「後世への最大遺物 デンマルク国の話」岩波文庫、岩波書店
内村鑑三の言葉は、自分の書きたいことを書けばいいと背中を押してくれた。
道端のひまわりは、僕の足を止めた。その力強さに胸を打たれた。僕も、たまたま巡り会った人が、思わず夢中になってしまうような、そんな記事を書きたい。たった一人でもいいから、僕の言葉が届いてくれると嬉しい。
最後まで読んでくれてありがとう。
P.S.
後世に残すべきものは、第一にお金、第二に事業、第三に思想だと内村は説きました。思想には、文学だけでなく教えることも含まれます。ですが、文章も教えることも苦手な人はどうすればよいのでしょうか。お金や事業よりも偉大な「後世への最大遺物」は、「勇ましい高尚なる生涯」だと内村は言います。以下は「勇ましい高尚なる生涯」の説明です。
この世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。
内村鑑三「後世への最大遺物 デンマルク国の話」岩波文庫、岩波書店
困難や逆境の中でも、前向きに生きる姿が人に感動を与える。その姿は他人の心の中で生き続ける。そんなことを内村鑑三は伝えたかったのではと思います。
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