あらすじ
優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘームシャルの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度・・・・・・。彼女の回想はヘームシャルの残酷な真実を明かしていくー(以下略)
カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳「わたしを離さないで」(2008)早川書房 背表紙
あらすじを一読しただけで、私は心を掴まれた。壮大な冒険でも、ミステリーみたいな怪事件事件が起きる訳でもない。でも「介護人」「提供者」「保護官」といった見慣れない単語の不気味さに、私の想像力が刺激された。これらが残酷な真実とどう繋がっているのだろうか、と。
提供者って「この番組は、ご覧のスポンサーの提供でお送りします」の声の人じゃないの?と思う方もいるかもしれないが、ボイストレーナーの物語ではないので安心して欲しい。
残酷な真実は、少しずつ明かされていく。それも「あ、これ知らなかったんだっけ?」くらいの唐突さで。まるで目隠ししてジェットコースターに乗るようなものだ。作中で何度も訪れるこの衝撃を味わってもらいたいので、今回はネタバレに影響しないように感想文を書く。
常識は、疑わなければ流される
ヘームシャルという施設で育てられたキャシー達は、幼いころから将来自分たちが「提供者」になることを知っていた。この「提供」は、読者にとっては思わず口を塞いでしまうものだ。
もし中学生だった私が「日本を飛び出してグローバルに生きるぜ!」とか言ってヘームシャル中学校に入学したとしたら(作中にそんな設定はない)、「提供」の事を知ったその日に亡命するに違いない。
だが、キャシー達と同じように、年少の頃からヘームシャルで育ったとしたら・・・。きっと私は抜け出せないだろう。彼らと同じように、「『提供』は当たり前のことだ」と思ってしまうはずだ。
「なにをいつ教えるかって、全部計算されてたんじゃないかな。保護官がさ、ヘームシャルでのおれたちの成長をじっと見てて、何か新しいことを教えるときは、ほんとに理解できるようになる少し前に教えるんだよ。だから、理解はできないんだけど、できないなりに少しは頭に残るだろ?その連続でさ、きっと、おれたちの頭には、自分でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ」
カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳「わたしを離さないで」(2008)早川書房 p129
小さい頃にすり込まれた常識を疑うのは難しい。それを深く考えることさえ思いつかない。「地球は太陽の周りを回っているんだよ」と教わっても、その証明方法を知っている人がほとんどいないように。
ヘームシャルの生徒達は「提供」の存在を知りつつも、どこか他人ごとのまま成長していく。「提供」が始まると、彼らは静かに役目を果たす。中には「提供」に抗おうとする人もいるのだが、それも猶予を願い出るだけで、暴動や反乱を起こす人はいない。提供者は主権を取り戻そうとしないのだ。
私達が生きるこの社会も、巨大なヘームシャルなのかもしれない。社会に求められる何かを提供をするため、常識をすり込まれる。それを疑わず生きていき、「あれ、私の人生ってこんなもんだっけ」と思った時には、取り返しのつかない歳になっている。
常識は、大多数の共通認識である。常識を疑えないのは、みんなが信じていることを疑うのが怖いからかもしれない。それか単純に、常識を疑うという発想がないからだ。ビジネス書で「常識を疑え!」とはよく言われるけれど、物語で暗示されたメッセージ(私が勝手に解釈したものだけど)の方が、ずっと説得力がある。
恵まれているのだから・・・
「わたしを離さないで」を読んでいて、反発を感じた箇所があった。ヘームシャルの元主任教員であるエミリ先生の言葉だ。キャシー達はヘームシャルを卒業後、しばらくしてエミリ先生と再会する。そこで真実を明かされ、受け止められずにいるキャシー達。だがエミリ先生はこう言った。
「それもそのとおり。でも、あなた方は過去の生徒たちよりずっと恵まれていることを忘れないで。それに、これからの生徒たちにはどんな人生が待っていることか。誰にもわかりません。(後略)」
カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳「わたしを離さないで」(2008)早川書房 p407
「他の人よりずっと恵まれているんだから、我慢しなさい」と、誰もが言われたことがあるだろう。たいていは、ぬいぐるみ買ってとかiPhoneにしたいとかいう欲求に対して使われる。しかしエミリ先生は、キャシー達の残酷な運命を肯定させようとしていてるのだ。そこが私には引っかかったのだ。
私にしてみれば、キャシー達の境遇は下の下である。そんな彼女たちに「下の下の下があるんだから・・・」と言ったところで、ゲゲゲの鬼太郎かよとツッコまれるだけだ。じゃあ、エミリ先生はキャシー達になんと言えばよかったのだろうか。
そもそもだが、キャシー達が存在しなくていい世界を守るべきだったのだ。私はキャシー達を生み出した輩に「あなたは他の人よりずっと恵まれているんだから、我慢しなさい」と言いたい。「わたしを離さないで」に描かれた世界は、遠くない未来に現実となっているかもしれない。私達の人生が、キャシーたちの残酷な運命の上に成り立つのだとしたら、そんな世界で生きていたいだろうか。
P.S.
私達の豊かさは既に、誰かの犠牲で成り立っているのかもしれません。安価で買える衣服は、海の向こうで必死に働く人のお陰だったりする。
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