「今日ね、厚焼き卵作ったんだー!」
お昼休みに、Tさんの元気な声が聞こえた。教室の隅に座っていた僕は、彼女の声をかき消すようにリンゴを囓る。「自分で弁当作るなんて、よくそんな手間のかかることするなー」と、心の中でつぶやく。
五大栄養素がバランス良く組み込まれているであろう、Tさんのランチボックスとは対象的に、僕のランチビニール袋にはリンゴ×1、バナナ×2、ミカン×1がそのまま詰め込まれていた。
スティーブ・ジョブズの伝説の卒業式スピーチに感化され、一年後期の必修科目を全て外しかけたからと言えど、食生活まで影響を受けている訳ではない(スティーブ・ジョブズはベジタリアンだった)。
朝晩は学生寮の食事をしっかり食べているので、お昼は軽めでよい。野菜も果物も生のままであれば、手間もかからないし、調理による栄養素のロスもない。「私のたっぷりの蜜、包丁で切って確かめてみない?」と頬を赤らめた「サンふじ」にささやかれたとしても、僕は口を大きく開けて齧り付くだけだ。
だが、便利と不便は表裏一体である。このワイルドな食事法も例外ではなかった。果汁が手を滴って気になるのだ。家にいる時は台所で食べればいいけど、大学のトイレの洗面台の前で食べる訳にはいかない。教室で食べるにしても、いちいち手を拭くのは面倒であった。「サンふじ」の捨て身の反撃に、僕は頭を悩ませていた。
じゃあ、リンゴ切ってタッパーに入れてフォークで食べればよくね?
運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣で切り拓くものである
アレクサンドロス大王
数百年間、誰も解けなかったゴルディアスの結び目を剣で一刀両断し、アジアの王となったアレクサンドロス大王。僕は己のランチタイムに革命を起こすべく、眠っていた包丁を呼び覚まし、純白のまな板にリンゴをのせた。そして、八つにくし形切りにした。
切ったリンゴをタッパーに詰めるとスペースが余ったので、みかんとミニトマトも入れてみた。
なんとまあ、宝石箱のようなランチボックスができあがった。切って盛り合わせるだけで、こんなにも景色は変わる。調理のひと手間(といっても入刀しただけだが)は、食べやすさだけでなく、タッパ-を開けた時の喜びも与えてくれた。今ではこれがお昼の定番となっている。
慌ただしく生きていると、料理も掃除も風呂も、ついつい億劫になる。自分のことを、テキトーに扱ってしまう。でも、忙しい時こそ、己を大切にする時間をきちんと作るべきだろう。自分を大切な存在だと思えない。そんな深層心理が、ネットサーフィンや暴飲暴食など、自暴自棄な行動につながっているかもしれない。
愛情のコップの満たし方は二つ。一つは他人に注いでもらう。みんなそうして欲しがるけど、実は自分自身でも注げるんだよ
知り合いのおじさん
厚焼き卵を作っていたTさんはきっと、自分の為にひと手間がかけられる人なのだろう。自分に返ってくるものは、勉強やスポーツだけじゃない。家事でさえも、親愛なる自分へのメッセージになるのだ。
時計の針が12時を指した。さあ、お待ちかねのお昼の時間だ。Tさんのお弁当にも、母が作ってくれていたお弁当にも到底叶わない。それでも胸を張って食べよう。今の僕に作れる、等身大のお弁当を・・・
「あ、弁当家に置いてきたわ」
僕の叫びを代弁するがごとく、お腹が鳴った。
Stay hungry. Stay foolish.
スティーブ・ジョブズ
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