※この記事はネタバレを含みます。
二学期が終わった翌日、「すずめの戸締まり」を観に行った。これでようやく、扉を開ける女子高生とロン毛のお兄さんが描かれたポスターが、防犯啓発以外の意味を持った。
「君の名は。」のような予想外の展開はなかったものの、活力をフル充電してくれる作品だった。人間は所詮、世界に生かされている存在に過ぎない。大切な何かが明日消えてしまうかもしれない。だからこそ、精一杯今を生きよう。そんなメッセージを僕は受け取った。
感動の余り、映画館から自宅まで走って帰った。街灯に照らされ、白い息が浮かびあがる。今日も明日も、一秒も無駄にはできない!
翌日の朝、高熱を出して寝込んだ。テスト明けに疾走するなんて慣れないことをするからである。「一秒も無駄にはできない!」と鼻穴を膨らませていた次の日、丸一日を無駄にした。
ぼんやりとした頭で、「すずめの戸締まり」を回想していた。なんで椅子は3本足だったんだろう。ダイジン(白猫)の目的は何だったんだろう。なんでサダイジン(黒猫)の名前はヤマトじゃないんだろう。
物語を深く知りたくなり、YouTubeで考察動画を検索した。一つ観始めると止まらなくなり、スマホの充電がなくなるまで見入ってしまった。次々と明らかになる新事実に、マリオカートのショートカットを見つけたかのように感動した。こんなに作り込まれていたとは・・・。僕は「すずめの戸締まり」をもう一度観に行きたくなった。
名作とは、「山」のようなものかもしれない。山の登り方はいくらでもあるのと同じで、名作は考える度に新しい景色を見せてくれる。ジェットコースターみたいに、席に座れば面白くて泣ける話が進んでいく作品は、頭を働かす必要はない。だがその分、視聴者が能動的に、隠された描写を探したり、心情や裏設定を考える機会は少なくなるだろう。
まあ、僕が名作の定義を語ったところで、それは「ぐり」と「ぐら」の見分け方を教わるくらいどうでもいいことだ。ここからは、所詮一回しか観ていない僕が感動した点を二つ紹介する。
一つ目は、「地震の抑止力は人の思い」であることだ。本作では、地震をもたらす「ミミズ」が廃墟にある扉から現われる。主人公達は扉を閉め、鍵をかけることで地震を止める。鍵穴は、草太(ロン毛のお兄さん)が呪文を唱え、かつその地で暮らしていた人達を思い浮かべることで作られる。
もちろん鍵はシリンダー式で、カードキーやボタン式キーではない。主人公が鼻血を垂らしながら「よろしくお願いしまぁぁぁす!!」とボタン式キーを叩いてくれるを、少し期待していたが。
廃れてしまった場所から「ミミズ」が出現し、人の営みを想像することで鍵穴ができる。だから「地震の抑止力は人の思い」であると思ったのだけど、これはちょっと違うかもしれない。新海さんはインタビューでこう仰っていた。
本作の企画時、最初の着想として“場所を悼(いた)む物語”にしたいという発想があったんです。(中略)失われていく場所を見送る……鎮魂する……お礼を言いながらお別れをするというような。
新海誠 https://www.famitsu.com/news/202211/17282112.html より引用
地震はプレートのひずみによって起こる。「すずめの戸締まり」では、プレートのひずみを「廃れた土地の心の嘆き」や「人の心の歪み」に置き換えているのかもしれない。鈴芽(主人公)はトラウマを乗り越え、幼少期の自分が迷い込んでいた扉の戸締まりを完了した。その後のシーンでは、草太が「まだ誰かが迷い込んでいる扉があるから、それらの戸締まりをしにいく」的なことを言っていた。
二つ目は、「鍵を閉めるという動作の普遍性」だ。「君の名は。」のように、誰かと身体が入れ替わることも、「天気の子」みたいに、祈れば空が晴れることもない。だが本作のテーマの一つである「鍵を閉める」ことは、日常的な動作だ。映画の冒頭やエンディングでは、家や自転車の鍵を開け閉めするカットがあった。私たちも、普段の生活の中で物語を思い出せるだろう。
中三で「君の名は。」、高三で「天気の子」、大学二年で「すずめの戸締まり」。新海さんの作品を青春時代に映画館で観られるなんて・・・。日本に生まれ、この世代に生まれた幸運の一つと言えるだろう。三年後が楽しみだなあ。
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